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  • 栄利秋作品集
  • 栄利秋作品集

    栄 利秋

    5,000円+税

    南島叢書101 / A4最大版 上製 カラー/モノクロ / 160頁 / 2023/8/15 初版

    ISBN978‐4‐87616‐068‐6 C0371

    南海日日新聞2023/9/9 瀬戸内町出身の彫刻家『栄利秋作品集』出版
    「壮大な無限旋律」中村喬次

    壮大な生命のドラマを60年かけて描いた稀有な彫刻家 栄利秋の造形の軌跡
    1965年に新進彫刻家として注目を集めて以来今日まで約60年間、ひたすら制作に打ち込んできた栄利秋の造形の軌跡を辿る作品集。木彫から出発し、素材の持つ表現の可能性を徹底的に探りながら時代によって異なる素材に挑戦しつつ、一貫して愛、生命、宇宙といった根源的、普遍的なテーマを追求してきた。
    作品の形を見ると、初期の種子がやがて結実して球体となり、球体は分裂して華となって受粉し、実をつける。あたかも生命の循環を60年かけて描き、木彫に還ったいま、新たな生命を生みだそうとしている。編者の平井章一氏(関西大学教授)は、その軌跡そのものを生命のドラマを物語るひとつの壮大な作品として捉え、「このような作品はこれまで見たことはないし、これからも見ることはないにちがいない」と評する。彫刻家 栄利秋の代表的な作品、及び全作品の目録を収録。誌面から生命の鼓動、躍動、宇宙の神秘が立ち上がってくる。

    2023.10.18

栄利秋作品集

栄利秋作品集

栄 利秋

5,000円+税

南島叢書101 / A4最大版 上製 カラー/モノクロ / 160頁 / 2023/8/15 初版

栄利秋とは何者か

作井 満

1

 大阪上六の近鉄デパート前にあるABCギャラリーで栄利秋さんの個展「いのちを讃(たた)えて、彫る―かたまりから宇宙まで」を観(み)る機会を得た。長年渇望してきた作品群を一堂目のあたりにして感動いまだ覚めやらずにいる。以下、栄さんとの交流を振り返りながら、作品に対する小感を記してみたい。

 二十七年ぶりの個展開催ということにまず驚いたのは、公私ともにエネルギッシュに活動を続けている芸術家にはこれまでも折に触れて接してきて、創造し、制作する天真爛漫(らんまん)な表現意欲をそのつど聞かされていたが、これほどの量の作品と向き合うことはなかったからだ。アトリエ訪問時において当然とはいえ、奈良市や神戸市や赤穂市や五條市など関西の地で雄渾(ゆうこん)な作品と出合ってきた私としては、二十七年もの間作品展をしていないということが、いまさらながら奇異に感じられるのだった。

 五月二十六日のオープニングパーティーに駈(か)けつける約束をしておきながら、あいにく所用で上京していてホゾを噛(か)む思いで神楽坂あたりをウロウロするしかなかったが、たまたま冥草舎の西岡武良さんと再会したものだから、この奄美を出自とする初の純文学系の出版社社主と祝杯をあげつつ栄利秋論を一席ぶつことで自らを納得させるしかなかった。それは忘れがたい夜になった。

 栄利秋とはそもそも何者か?

 奄美にいる人々にとっては、まずもって加計呂麻島の呑之浦にある「島尾敏雄文学碑」の制作者として認知されているのではあるまいか。島尾さんとか文学にさしたる関心のないむきも、カケロマの文学碑は奄美の地の、日本文学に誇りうる唯一の個性的な〈場〉となりうるだけに、一度くらいは訪ねてほしいとお願いしたい。冥草舎は亡き島尾さんとゆかりが深く、堅牢な造本で知られる『記夢誌』は、幾多ある島尾本の名作群においてもヒケをとらないばかりか、島尾ファンの間にあっては入手困難な珍本と呼ばれているほどである。加えて西岡さんは編集人というだけでなく島尾敏雄の人と文学については並ならぬ蘊蓄があり、そんじょそこらの島尾文学研究家などは足許(あしもと)にも寄り付けない存在なのである。その人が、

―そう、栄さんという彫刻家が加計呂麻の島尾文学碑を作った人ですか。もう何十年も帰省していないから未見ですが、小川国夫さんから素晴らしいロケーションの碑とは聞いています。

―西岡さんと栄さんも出会ってほしいですね。

―ともあれ、個展のオープニングに乾杯。

 ABCギャラリーに行けなかった夕べをこうして慰撫(いぶ)してくれるばかりか、奄美のつながりで会期中に来阪して鑑賞してみたいといわれ、我がことのようにうれしくなった。帰阪後も二十七日の関西伊仙会、二十八日難波闘牛大会に出席、ようやく会場へ駈けつけたのは二十九日、週に一度の女子大出講を終えた夕方であった。入ってすぐ目に飛び込んできたのは、最新作「宇宙シリーズ00―5・宙(そら)」で、天井まで届かんばかりの二対からなるモニュメントは、巨大な荒石が圧しかえしてくる力と、冬至、春分……と太陽の運行に深くコミットして制作されている分、はるかな時間のなかにおける地球と太陽と宇宙の係わりが感じられ、いささか安直だがストーンヘンジをイメージしたほどである。

 「古代人の太陽信仰の影響もありますね。太陽と地球と宇宙と。コスモスを表現したかった。太陽からの恩恵は、世界各地の多くの祭りや信仰、遺跡に残っています。それらを私は、石を用いて光と影として捉(とら)えたかった」

 とは栄さんの弁。太陽、地球、宇宙という人類共通の等しいテーマでありながら「個人を掘り下げていく中で、普遍的な世界を描き出そうと意図した」という自覚を持ち続けてゆく。「ニライ・カナイ」という作品に対しての発言だが、創造行為の原点に島で受感したものを手放さず大切にして、目指すものは高遠かつ普遍たらんとする。光と影の両面を常に作品の中で多層的に捉えようとする。芸術はすべからくかくあるべきだということを了解できるところが、観る者を魅了するし、奄美人たる私を捉えて放さない所以(ゆえん)でもある。

 栄利秋とは何者か?

 奄美人の濃い“血と地と風”を抱いた芸術家だ。何よりも作者本人がそのことを強く自覚しており、「私は、奄美の海と太陽に育てられた」と幾度も、インタビューなどに答えていることからもそのことが了解できる。

2

 百坪ほどの会場に所狭しと設置された五十点近い作品群は、まぎれもなく奄美を出自とする芸術家の今日までの歩みを刻印してやまない。十五歳で瀬戸内は請島・池地を出て沖縄に渡りながら、さらに勉学のためにヤマト(大和)を目指して大阪へ出てきた少年が、いつしか美術の世界にあこがれて大阪学芸大の美術科で学び、京都市立大で彫刻専攻。それから四十年近い日々、悪戦苦闘の証!としてここに作品群がある。

 われら島人ならば誰だって、島を後にする以上は、あふれんばかりの夢とあこがれと希望を抱いて七島灘の荒波を、それこそ命がけで渡ってヤマトの大都市を目指したはずだが、志を持続することはむずかしく、多くの人は挫折を余儀なくさせられ、現実の圧倒的な壁の前で妥協させられ萎縮(いしゅく)して生きるしかない。そのことをわかっていればこそ、しかし栄さんは四十年近い日々にわたって気の遠くなるような時間と労力と才能をかけて一作ずつの作品を創造し、制作し、積み上げてきた。そのことにあらためて敬意を表したいし、協調したいのだ。多くの人が為(な)し得ない仕事を可能ならしめるためには、乗り越えなければならない多くのハードルがあったはずであるが、そのことを日々の交流の場で微塵(みじん)も見せないところが栄さんの人としての幅の広さである。日常の姿は奈良佐保女子短大教授であり、故郷を同じくする美喜子夫人との間に三子をもうけている父親でもあり、関西の池地会や瀬戸内会や奄美会へも時折顔を出す島人である。しかし、その本質は、ぬぐいがたく美術家としての存在なのだ。

 美術家としての栄利秋!

 ともあれ会場内を俯瞰(ふかん)しようか。作品に圧倒され支離滅裂の感なくもないが、つとめて栄利秋的宇宙の全体像をルポしたい。六〇年代後半の「ゆがめられた青春」「結合」「コロコロ」「KANA」などは、美大の卒業作品にはじまり、モダンアートセンター・オブジャパンに出品したものが中心となっている。流線型の円あるいは楕円による木のオブジェは中心において相似型で割れていたり、エロチックな穴底であったり、円による連続体であったり、その独特の造形美は美の狩人としての資質をあふれさせている。注目すべきは次のような批評だ。

 「栄利秋は奄美大島出身で京都に住み、『次元65展』を企画、参加し、個展は今回が初はじめてだそうだ。(略)もしかしてエロティシズムを知覚できる貴重な一人ではないか、ともぼくは思う。だがもし〈運慶〉流にいうなら、大木という自然の中の、未知である原初の像を探り当てようとする視座を、今後も失ってはならないだろう」

 一九六六年の「現代美術」八月号における石子順造の評。三十四年も前に奄美出身であることを堂々と宣告しているのがウレシイ。当年六十歳を超えてなお海人(うみんちゅ)のたくましさや野毛遊びをしている大らかさ(の体躯(たいく))をもつ栄さんだが、後年マンガ評までフィールドとした美術批評界の大御所が、自然の原初形態を彫る表現者の中にエロチシズムの匂いを嗅(か)ぎ分けている点はさすがというしかない。無限の曲線美はまろやかな裸体を思わせるし、初々しい魅惑や妖(あや)しき官能の匂いたつ様は、肉体の生命的な造形美といってもよく、性的な蠱惑(こわく)力さえ秘めているかのようだ。

 エロチシズムの表現者!

 「『お前の作品は海の匂いがする』と批評されたとき、ぼくはうれしかった。ぼくの中にはミロの地中海と同じように、南国の奄美の海があるからだ。」

 これは「ミロ展」に寄せての栄さんの一文。六六年十月十九日の毎日新聞からの引用だが、出発からして海の、奄美の、沖縄の母の島の……につながるエロスを受感していたのだ。「エロチシズムを知覚できる貴重な一人」という石子の指摘がいまさらながらに納得できる。エロスをはらむ美の探究者として出発時において高い評価を得ていたことは再認識されていい。

3

 一期が「カナ」や「コロコロ」などの素材に向き合った木作品とすれば、会場のほの昏(ぐら)い照明の中で浮上してくるのは二期目といっていい。木とポリエステルや石膏(せっこう)、プラスチックの結合による多彩多様な試行錯誤を思わせる作品群だ。床にころがっているオブジェあり、天につるされたものあり、穴があいていてのぞいたり、子供たちが飛び乗って遊ぶことのできる巨大なプラスチックの半球がある。いうなればそこに芸術家栄利秋さんの、旧態とした美の有り方に活然と反旗をひるがえした自立宣言的な意味を読みとることができるかもしれない。

 「彫刻家トシアキはいまプラスチックに取り組んでいる。木や石や金属にかわる現代彫刻の新しい素材。台所の用品から車、宇宙衛星のカプセルにまで使われているプラスチックこそ、ぼくらの時代を象徴する」と、栄さんは新聞の取材に答えている。自在に変幻する素材とプラスチックで時代と切り結ぼうとする反逆児の横顔がはしなくものぞけるようだ。創造者のイメージ通りに造形を可能たらしめるプラスチックは、彫刻者にとっては革命的素材であったかもしれないが、その限界もやがて露呈してくる。それは自然の掟(おきて)でもある。六九年の朝日ジャーナルの表紙カバーを栄さんの作品「ポッカリポッカリ」が飾ったのは、時代は学生運動が最も盛り上がって国家権力と対峙(たいじ)していた頃である。事実、表紙の見出しは「非常事態宣言下の東大」とある。当時二十歳を出たばかりの私にとっても、まさに熱き日々であったことを思い出す。

 「現代の情報の発達はわれわれの空間感覚を地球を単位とした宇宙空間へと拡大した。もはや美術家がひとり閉鎖的なアトリエに閉じ込もり、秘儀に専念していればよい時代でなくなった」

 と、これは栄さんによる表紙のことばだが、時代の真っ只中で躍動している自負があればこそ言えることではないかと思う。ここで「空間感覚」は、アトリエでのひとりの秘儀に淫(いん)するのではなく、「宇宙空間へと拡大」して捉えられる。「われわれはこのめまぐるしく流動してやまない混沌(こんとん)とした現実にとびこみ、生身でものを見、感じ、行動しなければならない」。

 行動派宣言の美術家よ!

 その姿勢は三十年たっても変わらない。今年「KCNネットプレス」という私鉄PR誌の「もの創(づく)りの心と手」という特集で栄さんが取り上げられた。何十万部という発行もスゴかったが、オールカラーで十点以上にわたって栄さんの作品や人となり、工房が紹介されているのには驚いた。もちろんそれは大きな反響を呼んだ。大見出し「人間、太陽、全ての生命への讃歌としての彫刻」を受けて、「奄美大島の海と太陽が育てた感性」というサブタイトルがふられていて、これがまた忘れられない。朝日ジャーナルと私鉄沿線誌との媒体の差異は途方もなく遠いし、時代の思想と文化と運動をリードした最先鋭の「朝ジャ」は休刊したままで、この国の文化状況の退廃を見る思いがする。しかし、注目すべきは、わが栄利秋さんの芸術家としての生き様は、媒体が変わっても変わることがなく、三十一年もの年月を経てなお不変である。このことはいくら強調してもいいし、いのちの讃歌としての彫刻、という発想が揺るぎなく屹立(きつりつ)しているのが栄さんの創作態度であるということは押さえておいていい。このような栄さんの位置は何に由来しているのか?

 「僕は奄美大島諸島の周囲二十四キロメートルという請島が故郷なんです。泳いだり潜ったり、水平線を見ながら育ちました。ミヨチョン岳(標高四〇〇メートル)に登ると周囲のすべては海。地球の丸さが実感できるんです。太陽も海から上る。船がまずマストからみえてくる。小さな島だからかえって大きな地球や宇宙のイメージが湧くのでしょうかね」

 今年四月の栄さんの発言である。芸術家の現在の到達した地平を垣間見る思いがする。作品群の中に常に奄美の、池地の“風と血と地”をはらませながら、決してその地平に安住することなく、さらなる宇宙を目指して大きく飛翔するという自覚は、栄さんの来歴のなかでどのように育(はぐく)まれたのであろうか?周囲二十四キロの請島に育った人なればこそと言っていい出自の島に対する根源的な志向を持ちながら、ミクロへと下降しつつもマクロへの眼差(まなざ)しを忘れないという思考を身につけたのであろうか。小さな小さな生まれ島での生活体験によって、トータルとしての人間讃歌に至る創造行為が成立し得たという神話は、栄利秋を語るうえで見逃すことのできない切り口だといえる。人間や、太陽や、宇宙や、命などへの全身全霊を賭した讃歌が、だからこそ可能たり得るのだろうか?特集の二つ目のサブタイトルが「木から樹脂へ、そして石へ」であった、というのは栄利秋の表現軌跡をあざやかに眺望しているといえようか。

 木を彫ることで出自の島での原体験を造形し、不可思議な面の存在力を発見することで、表現者としての決定的な位置を確保したまま、樹脂を用いることで多彩な実験精神を発揮し、自在に空間を裁断する軌跡をみせてきた。そして石へと至るのである。

4

 これまで私なりに栄利秋さんの作品群をルポしてきた。ダイナミックな造形美の魅力を奄美の人にどれだけ伝えられたかとなると心もとないが、しかし「木から樹脂、そして石へ」と変遷していく創造者の姿はそれなりにとらえられたのではないかという自負がない訳ではない。同じ奄美を出自とする者としての共通項があって、様々に交流を重ねることができた分、他の人では了解しえない芸術家の歩みや感性の有り様、さらに創造し制作する人としての作者像にも触れることができたと思っているからだ。

 とはいえ、それだけでは私自身納得できず、小さな棘(とげ)のごとき不満や言い足りない思いが胸底に残っている。なぜか?五十点を超える作品群を一堂に目のあたりにした感動はたしかに拭(ぬぐ)いがたく私自身の中にある。しかし、それらはあくまでも展覧会用に設置された作品に限ってのものでしかない。島尾敏雄文学碑しかり、その実物のスケールを知っている者にはミニチュアではなんとも物足りないし、これでは栄さんの作品のもつ迫力は観(み)る者に伝わりにくいのではないか、という思いは否めないのである。

 栄さんの作品は、この小文のタイトルに付したごとく、生活する人々のあわただしい日常に埋没することなく「位置」し、都市の風景の中に物静かだが活然として「存在」を主張している。私が栄さんの作品と出合ったのは、竹下内閣における“ふるさと創生”事業資金一億円活用のために奈良市が「彫刻のある街づくり」のアドバルーンを揚げ、一千五百万円賞金の第一号作品に栄さんの「華」が選ばれ、そのオープニングセレモニーに奄美関係者の一人として出席した時である。十年も前のことになる。

 「この作品を制作したのは、三確町に住む彫刻家の栄利秋さん(53歳)。彫刻は、高さ三・五メートル。花こう岩の台座に、所々にくぼみを施した一辺一・六メートルのブロンズ像に反射する光の微妙な輝きで、像が動いて見えるように作られた、躍動感あふれるものです」

 これは「ならしみんだより」からの引用。故郷の奄美でどれくらい報道されたかは知らないが、奈良市の文化振興基金の一号作品という栄誉はセンセーショナルに報道された。「この作品は、縄文から万葉へと受けつがれた、おおらかでたくましく、豊かで、ダイナミックな奈良の心(精神)が二十一世紀に華開くことを願って作りました」と作者の栄さんは語っている。

 奈良市三条通りの中央公民館前に設置された「華」は、古都の中心街にあって、そのひときわ鮮やかな雄姿が道往く人々の目を引く。黄金色に輝く立方体の側面が太陽光線によって乱反射を繰り返し、巨大な八本の正方体からなる像がまるで動いているように見える仕掛けとなっている。いかにも栄さんならではの、荘厳さの中に遊び心も垣間見られる作品であり、彫刻のある街づくりを宣言した奈良市のトップバッターの作品としての名誉はもちろんのこと、後代まで人々を楽しませてくれるはずだ。徳島市銀座商店街入り口に設置した動く彫刻「風の詩」、毎日新聞夕刊に写真入りで紹介されたお化けのような大きなプラスチック球の「わんぱく芸術」しかりだ。今回の展示物でも奥まった一角に無造作に置かれた朱赤の球体は、触ったり、のぞいたり、手を入れたりと、“遊び”のある作品になっている。このことからも分かる通り栄さんの作品は、芸術作品としてショーウインドーのケースの中に鎮座することを拒否するのである。

 栄さんの「彫刻のある風景」はむろんこれだけではない。この後に五条市(対話、92年)、神戸市(落日、あるいは挽歌(ばんか)、92年)、JR平城駅前(宇宙、93年)、西脇市(アルカディアの門、97年)、赤穂市(宇宙、97年)、吹田市(であい、97年)などがあり、「華」に先行するものとして門真市(内なる宇宙、90年)、笠岡市(内なる宇宙、89年)、徳島市(風の詩、88年)、天理市(無限、87年)、横浜市(宇宙、86年)、宇部市(ニライ・カナイ、85年)、西宮市(無限、83年)……と続くのである。

大阪上六のABCギャラリーの会場におさまりきれないスケールの大作群が駅前広場に、公園に、商店街入り口に、大学構内に設置されていることを私(たち)は知っている。この一事をとっても、奄美、池地出身の彫刻家・栄さんが、いかにその力量を高く評価されているか、いや広く現代社会から認知されているかを理解することができる。そして、この個展会場以外の場にこそ、栄さんの本格的な大作群があることを忘れてはならないのだ。関西の地には三十万人を超える奄美の人々が在住しているときく。できれば、それぞれが(もちろん島に住む人々も含めて)栄利秋さんの彫刻のある街を訪ね、奄美の島の感性をになった芸術家の作品、すなわち自然と溶け合った創造行為を、直に自らの目で観てほしいと願わずにはいられないのである。

(詩人・海風社社長)

「彫刻家栄利秋を〈読む〉1~4」(『南海日日新聞 』2000年8月8日〔1〕、10日〔2〕、12日〔3〕、15日〔4〕)