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書籍出版 海風社 書籍案内

  • 翰苑(かんえん)2017.10 vol.8
  • 翰苑(かんえん)2017.10 vol.8

    姫路大学 人文学・人権教育研究所

    1,200円+税

    一般書 学術雑誌 / 並製 / 2017/10 初版

    ISBN 978-4-87616-048-8 C3030

    【特集】柳田国男と民俗学
    日本を代表する宗教学者 山折哲雄による「柳田國男の魅力」講演録、思想から民俗学を捉える綱澤満昭の「柳田民俗学と風景論」、
    柳田が、特赦事務において実際に見聞した凄惨、悲愴な奥美濃山中 の子殺しの事件について、後の柳田の民俗学のあり方とどのように関わっているかを論考した永池健二「柳田国男と『特赦の話』」、異類婚姻譚から柳田民俗学を投射した渡瀬茂「かぐや姫の結婚」など渾身の論考ずらり!!

    目次
    巻頭エッセイ
    地獄を覗く/綱澤満昭
    【特集】 柳田国男と民俗学
    講演録 柳田國男の魅力/山折哲雄
    柳田民俗学と風景論/綱澤満昭
    柳田国男と「特赦の話」―民俗の思想の「根」を求めて/永池健二かぐや姫の結婚―柳田國男の異類婚姻譚説を学ぶ/渡瀬 茂
    【論考】
    慶応期における播州三日月藩の「農兵隊」「農兵別隊」について/竹本敬市
    二〇世紀後半以降からの障害児(者)福祉と幼児教育及び学校保健の変遷からみえてくる課題/上田ゆかり
    明治・大正期における子どもの歌―唱歌「蛙」と童謡「青蛙」の音楽的比較/白石愛子
    【連載】
    道徳教育と人権教育の方法論的関連性/和田幸司

    2023.10.19

翰苑(かんえん)2017.10 vol.8

翰苑(かんえん)2017.10 vol.8

姫路大学 人文学・人権教育研究所

1,200円+税

一般書 学術雑誌 / 並製 / 2017/10 初版

【特集】柳田国男と民俗学
柳田国男と「特赦の話」永池健二 より

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2 『山の人生』と「特赦の話」
⑴ 事件の報道(その一)
 事件は、岐阜県の北部、郡上郡奥明方村(現郡上市明宝町)寒水(カノミズ、カンズイともいう)の在から山中へと分け入った山間の粗末な山小屋で起った。明治三十七年(一九〇四)四月六日のことだという。「岐阜日々新聞」(現『岐阜新聞』)明治三十七年四月九日付の記事は、その第一報を次のように伝えている。

●実子二名を惨殺す  再昨六日郡上郡奥明方村山中に於て同村大字寒水◯◯◯◯◯なる者は実子二名を惨殺せりとの急報に接し八幡警察署よりは翌七日◯◯署長は◯◯◯刑事・◯◯医師を随へ検視の為め出張したりと云ふ通信甚だ簡短にして要領を得ず後報を得て更に詳報する所あるべし((11))

 父親がわが子二人を惨殺したという事件の第一報は、四月六日という事件発生のときと、奥明方村山中という「場」と、「◯◯◯◯◯」という当事者の父親の実名を伝えるだけの短いものである。おそらくは、事件の急報を電信にて受けた記者が、詳細不明のまま、慌ただしく一報を報じた様子が窺える。
 翌十日、同新聞は、事件の詳報を次のように載せている。

●実子殺しの詳報  郡上郡奥明方村大字寒水三十二番戸◯◯◯◯◯(五十五年)と云へる者実子二名を惨殺したる由は取敢ず前号の紙上に報道せしが其今の詳報を記さんに◯◯◯は今を距る十年前に破産し女房お何及び幼児二名を引連れて北海道へ出稼ぎしたるも兎角思はしき事もなく僅かに一年間程滞在し帰国したる後は他人の山畑を借受け生れ故郷なる寒水にて細き畑を立て一家の糊口を凌ぎ居たるが今より七年前に至り不幸にも妻に死別れて家計はいよ〳〵困難となり現今は同郡山田村大字古道字蕪木なる山中に小屋掛を拵へ附近の山畑を耕作し居たるも世間一般の不景気にて其日の糊口にも差支へ非常の困難に迫り遂に此世を果敢なみ二人の小供を殺し自分は縊死せんと無分別にも決心し去る六日午前九時頃先づ長女◯◯(十三年)をば鎚にて打殺さんとしたるも死せざるより更に斧を以て一刀の下に首を切落したるにぞ其首は一間余も飛び去りたるを見るや更に長男◯◯◯(十二年)を同一の手段にて首を切落したるが◯◯◯は此の始末を見て茫然気抜けの体にて其辺を徘徊し居たるを早くも他人の発見する所となり大ひに驚きて直ちに八幡警察署へ急報せしかば同署にては翌七日◯◯署長は◯◯巡査部長◯◯◯刑事◯◯◯巡査◯◯医師等を随へ現場へ出張し加害者は大字古道の山中にて逮捕し同日午前八時頃八幡署へ拘引し目下取調中なるが◯◯◯は別段精神に異状を認めず全く貧苦の余り無惨にも斯る兇行に及びたる者の如しと云ふ近頃実に惨絶の次第なり((12))

 事件の第二報は、「実子殺し」の犯人◯◯◯◯◯が、困窮の中に妻を亡くし、窮迫して子供を道連れに心中を決意するに至る背景と、長女をまず鎚にて打ち殺そうとして果たせず、斧を持って長女の首を、次いで長男の首をも斬り落とした惨劇の様を生々しく伝える。
 親子が小屋掛けをしていたという山田村の古道蕪木という所は、寒水の外れから険しい山道を北西へ一時間余りも分け入った奥深い山中である。一帯は、明治三十年(一八九七)の郡制発布以来、郡有林として整備されてきた所で、杉や檜の美林が広がる山林の奥には、栗、楢などの広葉樹が茂り、「黒ボク」と呼ばれる火山灰土に深く覆われた肥沃な土地であったから、一時は、近隣からたくさんの人びとが入山し、「出作り小屋」を作って、炭焼きや「ナギ」と呼ばれる焼き畑に従事し、ヒエ、アワ、ソバや小豆、大豆、蕪などを栽培して生活していたという。犯人である父親もそうした入植者の一人で、蕪木山の山腹の標高九百メートル近い高地のカラマツ林の中を流れる細い谷川の傍らに小屋掛けをして、炭焼きや焼き畑に従事していたのである(日置繁「郡有林むかし話((13))」)。
 惨劇のあった山中の小屋跡は、土地の人びとから「シンシロヤシキ」「ボットリヤシキ」などと呼ばれ、雑木の生い茂る山林の中に辛うじてその痕跡を留めている。「シンシロ」(新四郎)とは、金子貞二「新四郎さ」にあるように、父親が寒水でそう呼ばれていたとされる通称である。(以下、本稿では父親の実名を避け、この「新四郎」の通称を用いることにする)。「ボットリ」とは、米や雑穀を撞いて精白する道具で、水をためて注ぎ掛け、テコの原理を応用して米を撞くものである。
 私は、平成二十三年(二〇一一)九月二十八日に、寒水在住の郷土史家増田巌さん、大和町にある郡上市立古今伝授の里フィールドミュージアム所長の金子徳彦さんのご案内で山田村古道(現郡上市大和町古道)の側から山道を分け入ってこのボットリヤシキを尋ねた。険しい山道を三、四十分余もかけてたどり着いたその地は、雑木の生い茂る山林の只中で、奥を流れる谷川のわずかな清流とその傍らに残るボットリの根太かと思われる遺物が、辛うじて昔の生活の痕跡を物語っていた。小屋は、地面に直接柱を立てた掘っ立て小屋で、屋根も壁も萱を葺いただけの粗末なもので、地面に直に炉を掘り萱蓆を敷いて生活していたのだろうといわれている。

 増田巌さんによれば、シンシロウサ(新四郎さ。「さ」は同輩の者に対する親しみを込めた敬称)は、寒水のハンダニと呼ばれた家をホンヤとするオジボウズであったという。ホンヤ(本屋、本家)とは、生まれ育った実家の事で、オジボウズとは、その家で後を継ぐことのない二男、三男などの謂である。「タニ」は、人の住まない川沿いの奥地をいう呼称で、寒水には「七谷半」あるといわれ、ハンダニもその一つであるという。いずれにしろ、谷川に面した傾斜地で、耕作に適さない土地である。そうした家のオジボウズであったシンシロウサは、自らの田畑を持てないまま、北海道に出稼ぎに出たり、郡有林山中に小屋掛けをしたりして生活するしかなかったのであろう。
 続いて一日置いた四月十二日付の『岐阜日々新聞』は、「実子殺し」事件の「余聞」として次のような続報を載せている。

●実子殺し余聞  前号記載の如く郡上郡奥明方村字寒水の◯◯◯◯◯が貧苦に迫りて実子二名を惨殺し◯◯◯は八幡署の手にて逮捕されたるが今其の続報により聞き洩したる模様を記さんに◯◯◯は昔気質にて非常の正直男にして貧困に迫るも他人の門戸に立ちて乞食を為し得ず父子三人は昨冬頃より食ふや食はずに打暮し居たるも不景気の折柄とて日雇稼ぎを為す事もならず一日は一日より苦境に陥り遂に今回の兇行に及びたる者にて全く飢餓に迫りて余儀なくも我子には因果を含めて共々に自殺の事を告げたるに二人の子供も斯る寒飢の中に生き存へんよりは何卒殺して呉れと頼みたる由にて◯◯◯は遂に涙を揮つて殺害したる模様なるが◯◯◯が二人を殺したる後其実兄◯◯◯◯◯◯に語る所に拠れば父子は既に三四日以前より一粒の食物も食し得ざりし由にて何れも飢餓に陥り居ければ殺害の際にも二人の子供は寝所に臥したる侭毫も苦悶の体なく一刻も早く殺害されん事を待ち居たる者らしく屍体の如き両人とも胴体を並べ居たる由又◯◯◯は二人を殺害したる後子供の死体の傍にて縊死を企てたるが縄切れて死切れざりしも一時は気絶したる模様なり又た◯◯◯の語る所によれば当時長男◯◯◯は姉さまは泣くけれども私は泣かぬゆへ早く殺して下さいと姉の殺害さるゝ傍にて身動きもせず落付居たるが殺害に使用したる斧は余り鋭利の者に非ず◯◯◯を殺すに少なくも一四五度以上も無茶切に斬りつけたる者にや頸部の肉と骨とは打交りて非常の惨状を呈し居たりと云ふ又◯◯◯は父子三人の住居なるも夜具は一枚もなく破れ蓆を着て深山積雪の間寝ねたる寒苦は想像するに余りあり殊に着物は何れも単衣のみにて一枚の着替とても見当らず飢寒の極父子諸共に死を決したるも万己(ママ)むを得ざる者の如く実に悲絶慘絶の次第なりと云ふ((14))
 
 「実子殺し」の余聞を伝えるこの第三報では、父親による実子殺しという兇行が、微妙にその相貌を変え始めている。それを端的に示しているのは、傍点を付した次のような記述である。

⃝余儀なくも我子には因果を含めて共々に自殺の事を告げたるに二人の子供も斯る寒飢の中に生き存へんよりは何卒殺して呉れと頼みたる由にて‥‥
⃝殺害の際にも二人の子供は寝所に臥したる侭毫も苦悶の体なく一刻も早く殺害されん事を待ち居たる者らしく屍体の如き両人とも胴体を並べ居たる由‥‥ 
⃝◯◯◯の語る所によれば当時長男◯◯◯は姉さまは泣くけれども私は泣かぬゆへ早く殺して下さいと姉の殺害さるゝ傍にて身動きもせず落付居たるが‥‥

 ここには、二人の子供が死ぬことをいやがりもせず、むしろ自ら進んで「死」を望んだ様子が、表現を変えながら、くり返し述べられている。記事では、なお、自殺の発意は父親からであると述べ、「殺害」の語も重ねて使っている。見出しも「実子殺し余聞」とあり、親による子殺しの大罪であるという報道の基本姿勢はなお崩していないが、事件に対する印象は大きく変化している様が窺えよう。
 そうした変化は、「◯◯◯は昔気質にて非常の正直男にして」などという敘述の中にも表れていよう。この段階で、警察の取り調べは、犯人の父親だけでなく、その実兄を始めとする寒水の村人たちへと広がっており、その様々な証言によって、事件の相貌が確実に変化し始めているのである。
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